きみとキスした夜に星が一つ落ちるではなく詩にロマンチックな雰囲気を持たせるために滑り落ちという表現で歌が始まる「キレイな愛じゃなくても」
主人公から見た街は眩しく輝いて見えてうれしさからつい口笛を吹いて歩いる描写をぼくは想像する。
いまの心の中を「波のざわめき」と表現している。
2番の出だしの「日持ちの悪いミルクなの」これを初めて聴いた10代の頃、日持ちの悪いミルクって意味はなんだ?と思った。
その後に続く詩も意味がわからなかった。
稲葉は会報誌でFRIENDS IIのインタビュー記事でマディソン郡の橋を見たと語っ ていて映画に出てくる2人を「ままならない感じ」と記事で語っている。
マディソン郡の橋はドラマチックさを無くせばその本質は不倫の物語だと思うのだけれども
激しい恋→「日持ちの悪いミルクのように長くは持たない」ということをミルクを使って表現しているのではないだろうか。
「パーフェクトな愛じゃないって本には書いてる」これはいまの流行りかよ!というほどテレビやネット、雑誌をにぎあせているように感じるが不倫に対して書いてある文章のことか、もしくは再婚ことのようにぼくは思えた。
パーフェクトな愛は
結婚して生涯それを貫き通すことや少女マンガやドラマに出てくるような物語
キレイな愛じゃないは再婚や不倫のようなことで
少女や少年から見れば初恋こそ綺麗なものだ。
大人からすれば「それだけが綺麗なものだよ」と言われたら何にも言えなくなってしまうのではないかw
まあ ぼくはマディソン郡の橋もそうだけど不倫、略奪愛がテーマとかそんなものはどうでもよくて詩の中の物語や表現が素晴らしいと10代の頃思っていた。
叩いて埃の出ない人間はいないのだ。
「空を舞う鳥を撃たないで」
まるで文春砲で次々に撃たれていった芸能人にも当てはめれそうな歌詞だ。
舞うような気持ちを自由に空を飛んでる鳥に例えて自由を奪わないでとかそういう意味だろうか?
空を舞う鳥→主人公
撃たないで→世間の人たち
詩を書いた稲葉のみぞ知る世界
「キレイな愛は綺麗なの❓」
世間から見れば綺麗な愛に見えていても本人達はマンネリ化した仮面を演じてるならそれは綺麗な愛なのか
逆に世間から見て、綺麗な愛には見えない、批判に晒されているようなキレイな愛じゃなくても本人達が愛し合っているなら幸せを装っている愛より余程キレイな愛なのではないかい
といった当事者になってしまった主人公の自問自答のような感じにぼくは聞こえる。
世間がいうキレイな愛じゃなくてもいい
悟りなど開けない
誰の言葉→世間
くだらないしいらない
なにも怖いことはない!今しかないからいま行こう
抑えられない気持ちを表現している。
I have nothing,Yeah I'm nothing
私には何もない そう私は何もしていません
辞書で検索するとこう出てきたのだけど
この後に続くのが
「何か違うかい」
「傷はふえるよ」
「何も怖いことない」
私には失うものなど何もない。私は何もしていない何か違うかい
いくつになっても悟りを開けないまま傷だけはふえていくよ
誰の言葉くだらない世間の常識などいらない何も怖いことはない
「さあ行こう」みたいな決意をしたと自分は感じた。