春を題材にした曲はたくさんあるし名曲もたくさんあるがやはり春と言えばB'zの春だろう。
B'zをよく聴き始めた子供の頃、遠くのガソリンスタンドから有線が流れていた。その当時は何の曲かわからなかったが「The 7th Blues」を聴いてあのとき聞こえた曲は春だということがわかった。
ガソリンスタンドから聞こえたときは歌詞はわからなかったのだが曲調のいいバラードだなぁと思った。
タイトルになぜ春なのか「少しだけ春が 近付いてる気配はするけれど」この詩から春は出会いの季節でもあるが別れの季節でもある。
出会いや桜の華やかな部分ではなく別れや桜が散る部分にスポットを当てた。だから春なのだと思う。
さて、ネットを見ていると春に対して2つの意見が見受けられた。それは春は「不倫の曲なのか」「そうではないでしょ」という意見だ。
稲葉は曲は聴いた人の「見たまま、感じたまま」みたいなことを言っていたような気がするがまあ曲の感じ方は人それぞれ十人十色でいいのではないかと思っている。
しかし本当に不倫の曲なのか?ぼくの個人的な感想で言わせてもらうと不倫の曲といより不倫の映画から着想を得て春と組み合わせ作った曲なのではないかと思った。
その着想を得た映画とはこれもぼくが勝手に思っただけのことなのだが「マディソン郡の橋」ではないかと思っている。
これは97年の会報誌のインタビューのときのものなのだけれども
内容はFriends IIの歌詞のヒント、きっかけは?と聞かれたときのものなのだが「マディソン郡の橋」の刊行されたのが1992年で後にクリント・イーストウッドが1995年に映画化した。
ぼくは会報誌を読んですぐにビデオをレンタルしたのだが「あれは不倫の映画」などのカキコミを見てぼくは不倫とかそういうのはどうでもよくてすごく切なくて稲葉風にいうと「ままならない感じ」がすごくして感動した。
稲葉は小説を読んでいたようだが1994年の「The 7th Blues」が発売されたこれ以前の92~93年頃にもし小説を読んでいたとしたら「マディソン郡の橋」から着想を得たという可能性はないだろうか。
曲の冒頭で「奪う勇気を捨てた者たちは」子供の頃は女性を奪う勇気を捨てた男たちという意味なのだろうと思っていたのだがこれは「勇気を捨てた男女」ということなのだろうといまは思っている。
ウキペディアに「マディソン郡の橋」のシーンのことが書かれていた。
4日目の夜に「一緒に町を出よう」というのでトランクに荷物を詰める。しかし、家族を捨てる訳にはいかないというと「これは生涯に一度きりの確かな愛だ」という。
方や家族がいる主婦、方やカメラマンで家族がいる状況で環境を捨てることも奪うこともできない
「奪う勇気を捨てた者たちは」→家族を捨てる訳にはいかない 子供達の幸せを奪うことはできない
それを男は奪うことをあきらめた→寂しい街から連れ出しての下り
という意味にぼくは思えた。
うろ覚えだが映画では四日目の夜は、街を出る出ないでもめて二人は寄り添うことはなかったと思う。
仕度は終わりと歌詞が出てくるが春では女性側で「マディソン郡の橋」男性がトランクに荷物を詰め込み仕度を終えている。
最後は激しい雨の降る中で車に乗り込む彼女を男はただ見送って、走り出した車の中で急に女性が泣くシーンだったと記憶しているけども、このシーンがまさに「なにも言えないで過ぎてゆく」という春の詞をぼくは連想した。
まあ恋や愛などシュチュエーションやバリエーションなどは幾通りもあるのでその中でたまたまインタビュー を見てバイアスがかかった状態で聴いたら春に思えたかもしれないが答えは作詞家本人しかわからないのだ。
ちなみにぼくが春で好きな詩の部分は「たかが恋なのにいつからこんな臆病になったの」愛じゃなくて恋なの?と言いたくなった。語呂がいいからね!